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のわい勢とは

以前のリビジョンの文書です


のわい勢とは

[color=brack] 当該組織に関する情報が流出することを防止するため、ある程度もしくは完全なる欺瞞情報が、本物の項目と共に複数製作されています。複数の囮情報を含む、当該組織およびSCPの性質に関わる全てのファイルはミーム的ソフトウェアによって保護されており、権限なくファイルにアクセスしようとすれば即座に███を起こします。████-███-██████による要求を除き、当該組織の性質等を暴露しようとする一般市民は処理されます。 [/color]

  • 「no way 勢」から「のわい勢」となり、多趣味で浅く広くさまざまな知識を持つ者たちの集まりである。


というのは後からついた「のわい勢」をよく表現したもっともらしい語源であり正しくは…

  • フリック入力で「こわい」と入力しようとしたところ入力ミスにより「のわい」と入力されたことが始まりである。


のわい勢と那古野神社 (愛知県名古屋市中区丸の内)

  • 那古野神社の総本社は刈谷那古野大社とされ、延喜式神名帳に記載がない式外社である。和銅年間に都より伊勢に配流された公家出身の那古野氏が野猥氏に祀られ神格化したものと思われる。祈雨、鉄馬の神以外にも牡蠣豊漁の神として信仰を集める。
  • 那古野神(なこのかみ) 古来、伊勢~三河周辺で信仰される土着神で8世紀初頭に編纂された「野猥記」には三河一帯の豪族の野猥氏の氏神として登場する。日本神話の雨神とは関わりが無く、6世紀頃から三河周辺で勢力を伸ばした野猥衆の信仰が鉄馬の発展と共に周辺に広がったと思われる。

歴史から読み解くのわい勢

  • 「のわい勢」は古くから日本列島に存在したと考えられており、「魏志倭人伝」にも次の記録がある。
  倭人に野猥と号する氏族在り。
  野に篝火を焚いて集り、人形を崇める。
  沼から来る社畜に会いては、馬を用い抗う。
  • この記述から「のわい勢」は既に3世紀頃から、キャンプをしながらドールで遊んでいたこと、周辺の沼の社畜との対立があったことが読み取れる。また、キャンプをしながらドールで遊ぶ「のわい勢」と思しき集団が二子古墳壁画(愛知県安城市)に描かれており、4世紀頃には三河地方に存在していたと考えられている。
  • 4世紀から5世紀にかけての三河地方における古墳時代には、「のわい勢」の活動はドールよりも同人活動に重点が置かれ、数々の古墳の壁画に携わってきたものと考えられている。古事記にも書かれているのだ。また、この頃に金属加工技術を得たようで、古墳や遺構から銅カブが出土している。ただし、まだ技術的には発展途上であったと見られ、貝塚などから修理中に放棄されたものが折り重なるように出土するケースもある。
  • 6世紀は中央集権の確立していない時代であり、東三河は豪族支配と、その勢力争いの時代であった。この頃、蒲郡を巡り西尾の豪族チンポソイヤとの激しい争いが発生していた。湾スカの舗装が荒れているのはこの名残である。この争いは、チンポソイヤの旗艦であるR32へのメイトミサイルの突入により、「のわい勢」が蒲郡の支配権を確立して終了した。
  • 6世紀から7世紀にかけて、中央で十七条憲法が作成されると「のわい勢」もこれに追随した。“十七条のわい”である。文面はご想像の通りなので割愛する。「のわい勢」の遣隋使への参加も検討されたが、TOEICの点数が足りないため断念された。中央で大化の改新が起きても「のわい勢」は相変わらずであったが、新たに構えられた三河国の国府は念のため「のわい勢」を監視しやすい場所(現在の豊川市国府町付近)に置かれることになった。現在の豊橋市付近には三河とは別の国造(くにのみやっこ)がおり、「穂の国」となるはずであったが、うっかりTV局を静岡側にまとめられてアニメがキテレツばかりになっては困る、と懸念したびーむがこれを無かったことにしたため、豊橋市付近も三河国に統合されることになった。
  • 7世紀は平穏に過ぎるものと思われたが、中央で壬申の乱が起きると東三河にも緊張が走った。「のわい勢」は情報収集のために無線LANアクセスポイントを構築した。壬申のLANである。壬申のLANは黒水牛で作られ、バックボーンはドコモの3Gであった。回線が開通した頃には大海人皇子派の勝利で乱が幕を閉じてしまったため、当初目的は果たせなかったものの、関連ツイートをふぁぼるのに便利であったという。
  • 8世紀は鎮護国家が目指されたため、幾多の仏像が作成された。「のわい勢」もこの流れに乗じ、奈良東大寺に大ドールを納めることを画策するが、ヘッドを外注したなこのが案件を放置した為、完成に至らなかった。8世紀初頭は律令制が確立された時期であるが、律令制の根幹の一つである口分田制度はとりあえずキャベツ畑がほしいびーむ家には極めて都合が悪かった。墾田永年私財法により荘園制度が確立すると、びーむ荘園が形作られ、現在のびーむ農園の祖となっていく。
  • 山城国に伏見稲荷が創建されると、「のわい勢」は山城国への遷都を後押しした。あまり関係はなかったが、8世紀末に山城国に平安京が造営された。「のわい勢」の出没する伏見を避けて造営され、朱雀大路の南端には羅城門を置き、「のわい勢」の侵入に備えた。
  • のわい勢が平城京付近に出没するようになると、この脅威から平城京を守るために奈良東大寺盧舎那仏像に匹敵する大仏の建立が計画された。この大仏は従来より小型化し、高い機動力により威力を発揮する計画であった。後のグワーッ!=サンである。
  • 2012年に新生病原体「のわい勢」が全世界で大流行し社会問題に発展したがこの病原体には致死性がなく、症状としては様々だが過去の史実で見られたような「人形を崇める」「自動車(二輪車を含む)をいじる・増やす」「機械・電子工作をおこなう」等々症状に統一性がなく治療は困難を極める。接触感染、飛沫感染の他にインターネットから感染する場合もある。治療薬は開発されていなく、現在も少しずつだが蔓延しているようだ。

のわい勢の歴史 海外編(発生から日本定住まで)

####UNOFFICIAL####

のわい勢・・・その起源は定かではなく、古代ギリシア暗黒時代に遡るとも言われる。

考古学的にはクレタ島のローマ帝国期の遺跡に刻まれた世界最古となるのわい勢ロゴ、 タクラマカン砂漠南縁で大量に発掘されるのわい勢プレート、 玉門関周辺で発見された世界最古のカメラ、 正倉院に収蔵された“1キュビット(60cm)級の人形”、“高解像度野猥勢金印”等の遺物が発見されている。 一方、紅海沿岸・インド亜大陸を渡る“海のシルクロード”道中ではのわい勢の痕跡は全く検出されていない。 これはのわい勢たちが航海で電子機器が痛むことを嫌ったためとみられている。

地政学的には地中海地方で信仰された古い神の名前(ノアーイイー)、 中央アジア近辺で見られる、明らかに印欧語族系の命名法則から外れた人名(アル・ノアイア、現代ではイスラム教の浸透に伴うアラビア語族の影響によって変化している)、 シルクロード各地に残る“カメラをつけたラクダ”の寓話、 “草原の道(ステップロード)”を経て日本に至る各所に点在する地名にのわい勢の痕跡を検出することができる。

このことから、遅くても紀元前後にはのわい勢は既に大きな勢力として地中海に存在しており、 シルクロードの発展とともに東方、さらに極東の日本へ進出していたと見られている。

のわい勢はどこで誕生し、なぜ日本に定着したのか。 この最大の謎は、のわい勢たちがログが残りにくいICQ、メッセンジャー、twitter、LINE等を好んで利用したため一次資料に乏しく、解明は困難を極めている。 著名な線文字A、線文字B等の未解読文字をのわい勢が利用した顔文字と結び着ける見解もあり、翻訳の努力が続けられている。

2014年に発掘された「のわい勢wiki」は、それ自体がのわい勢が持っていた極めて高度な技術を示すものとして、また内容も一線級の資料として多くの研究者から注目を浴びている。 ベル研究所(デジタルデータ復元担当)・エディンバラ大学(翻訳担当)の合同チームによる復元作業は早くても2025年ごろまでかかると見積もられている。


キャベ取物語

今は昔、キャベ取の翁といふ者ありけり。畑にまじりてキャベツを取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、びーむとなむ言ひける。そのキャベツの中に、もと光るキャベツなむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、葉の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなるドール、いとうつくしうてゐたり。翁言ふやう、「我、朝ごと夕ごとに見るキャベツの中におはするにて、知りぬ。娘となり給ふべき人なめり」とて、手にうち入れて家へ持ちて来ぬ。妻のココットに預けて養はす。うつくしきことかぎりなし。いと幼ければドールバックに入れて養ふ。

キャベ取の翁、キャベツを取るに、この子を見つけてのちにキャベツ取るに、葉を隔ててよごとに金あるキャベツを見つくること重なりぬ。かくて翁やうやう豊かになりゆく。

このピコニーモ、養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。三月ばかりになるほどに、よきほどなるDDになりぬれば、髪上げなどさうして、ウィッグ上げさせ、イベ限定服着す。おくるみのうちよりも出ださず、いつき養ふ。この娘のかたちけうらなること世になく、屋のうちは暗き所なく光満ちたり。翁、心地あしく苦しき時も、この娘を見れば、苦しきこともやみぬ。腹立たしきことも慰みけり。翁、キャベツを取ること久しくなりぬ。いきほひ猛の者になりけり。

この娘いと大きになりぬれば、名をまふふを呼びてつけさす。まふふ、姐さんとつけつ。このほど三日、うちあげ遊ぶ。よろづの遊びをぞしける。のわい勢はうけきらはず呼び集へて、いとかしこく遊ぶ。


まふふ航空貨物便撃墜事件

まふふ航空貨物便撃墜事件とは、去年くらいに起きた民兵による民間貨物機の撃墜事件である。

出来事の概要

  • 概要:民兵による撃墜
  • 現場:愛知県西尾市 三ヶ根山
  • 乗員数:3
  • 負傷者数:0
  • 死者数:0
  • 生存者数:3(全員)
  • 機種:ボーイング727-200F
  • 運用者:まふふ航空
  • 使用機材:ボーイング727-200F
  • 機体記号:JA831M
  • 運航会社:まふふ航空
  • 予定運航経路:豊川空港発 中部国際空港行(往復予定)
  • 運航乗務員 機長:まふふ 副操縦士:ココット 航空機関士:びーむ
  • 主な積荷:メヒカリとキャベツ

まふふ航空は、のわい勢の航空部門である。その前身は、まふふ鉄道の航空部門の、まふ鉄航空貨物である。 まふふ航空の経営は厳しく、機長は社長のまふふ自らが勤めていた。 事故の際に運行されていた航空貨物便を豊川空港と中部国際空港の間で中継するシャトル便は、まふふ航空の数少ない収益源であった。 まふふ航空のボーイング727-200Fは、まふふ航空が保有する唯一の1機であった。 この機体はボーイング727-200Fと称していたが、モハーヴェ砂漠に放置されていた機体や、アフリカや南米で貨物機として飛んでいた機体を寄せ集めて作られた、得体の知れない機体であった。改造と整備の記録は残されていなかったが、ガレージまふふでびーむが溶接して仕上げたと推測されている。コックピット含む機首部分は元米空軍機のものが切り貼りされており、フライトデータレコーダー、コックピットボイスレコーダーは装備されていなかった。トランスポンダーは装備されていたが、民間機用ではなく、米空軍規格の旧型IFFであった。 エンジンは依然としてプラット・アンド・ホイットニー JT8Dであり、本来は中部国際空港の騒音規制をクリアできないが、何故か運行は黙認されていた。当日の積荷は蒲郡港で水揚げされたメヒカリと、びーむ家で収穫したキャベツであった。 通常、このシャトル便では機長と航空機関士のみが乗務していた。しかし、この状態が国交省 運輸安全委員会に発覚しかけたため、やむなくこのフライトから副操縦士を乗務させることになった。副操縦士にはグラウンドスタッフからココットが選任された。 ココットが乗った乗り物は秒速1.7mでいずれかの方向に移動する特性があるため、この誤差を都度修正しながら飛行することになった。

事故に至る経緯

まふふ航空が豊川空港から中部国際空港に向かう際は、豊川空港を離陸後、蒲郡市街の上空から三河湾上に抜けるのが通例であった。低空を通過する旧型のターボファンエンジンの騒音は、蒲郡市民の悩みの種であった。

三ヶ根山は、豪族チンポソイヤが支配する西尾と、のわい勢が支配する蒲郡にまたがっているが、蒲郡側では豪族チンポソイヤへの恭順を主張するチンポソイヤ民兵が活動していた。 三ヶ根山上空をのわい勢が通過した場合、蒲郡側であってもチンポソイヤ民兵のチンポソイヤでチンポソイヤされる恐れがあるため、まふふ航空は三ヶ根山上空を迂回していたのである。

まふふ航空機が豊川空港を離陸後、ココットが乗務したことで発生する秒速1.7mの誤差を修正する必要があったため、まふふはこれを考慮して西寄りに機首を向けた。しかし、ココットはしばし東に向かって秒速1.7mで進むものの、その方位が固定されていないことは把握されていたかった。 当日のココットは西に向かって秒速1.7mで機体を移動させており、まふふの修正舵は結果的にこの誤差を拡大することになってしまった。そして、機体はまふふの意図に反し、三ヶ根山上空に差し掛かってしまったのである。

事故発生

三ヶ根山上空で、左ウイングチップにチンポソイヤの直撃を受けた。もとより疲弊しきっていたうえにダメージを受けた主翼はチンポソイヤし、油圧制御系統は全損した。離陸に際して主翼外側の燃料タンクは満タンになっていたため、気化した燃料による爆発は起きなかった。ジェット燃料は燃料タンクが破壊されるにつれ、漏出していった。内側燃料タンクにも損傷はおよび、燃料が漏出した。 同機は豊川空港に引き返し、パイロットの操作のみによる3基のエンジンの推力操作で、3人の乗員は片翼の一部を失った機体を着陸させた。主翼への大きなダメージ、油圧制御系統の全損、安全な着陸速度を上回る速度、準備の整っていなかった地上滑走路といった条件にもかかわらず、無事に着陸した。

離陸後

まふふ航空機は燃料を節約するため、緩慢な上昇を行っていた。蒲郡市街をぬけ、三ヶ根山上空に差し掛かった際も高度は約8000フィート(約2450メートル)程度であった。

三ヶ根山上空でまふふ航空機はチンポソイヤ民兵に発見された。チンポソイヤ民兵はまふふ航空機を発見すると。即座にチンポソイヤをチンポソイヤした。チンポソイヤはまふふ航空機の左ウイングチップに命中した。動翼と桁が損傷し、チンポソイヤを引き起こした。三重の油圧システムは油圧を失い、飛行を制御することが出来なくなった。機体は1985年8月12日のJAL123便と同様、ローラーコースターさながらの急速な機首の上下動を繰り返した。

まふふは、JAL123便や1989年のUA232便と同様、エンジンの推力調整のみで垂直方向、速度そして高度を修正し、両エンジンの推力を左右非対称に変えることで水平方向を制御し、機体を旋回させた。航空機関士のびーむは、通常は油圧でおこなう着陸脚下げを、重力落下で実行した。抵抗を増大させることにより速度が低下し機体を安定させることになるため、早期に着陸脚を展開することは安全な着陸にとって緊要であった。

約10分にわたる試行の間に、乗員は旋回、上昇そして下降を制御することができるようになった。迷走の後、彼らは右旋回を行い、豊川空港へ向かい下降を開始した。

緊急着陸

左翼のチンポソイヤと燃料漏出のため、びーむはエンジンを綿密に監視しなければならなかった。生還には両翼のエンジンの正確な制御が不可欠であり、万一左翼タンクからの燃料供給が失われた際には、燃料を右翼から供給しなければならなかったからである。

まふふとココットは、豊川空港11/29滑走路への最終アプローチを開始した。この滑走路は県道5号線を滑走路に利用しているだけで、着陸を支援する機材は皆無であったが、視界はきわめて良好であり、まふふとココットは降下を制御することができた。直観に反することだが、彼らは機首や翼を激しく地面に激突させないためには、着陸前にスロットルを絞ってはいけないことを理解していた。

約400フィート(120メートル)で、乱気流により機体はバランスを崩し、右側に傾いた。推力補正によりロールは制御されていたが、機体は滑走路中央線を外れて着陸した。びーむはただちに逆噴射装置を全開にしたが、機体は滑走路から逸脱していった。この期においてもココットは秒速1.7mで機体を移動させており、これは減速に役立つ一方、逸脱も助長してた。機体は空港敷地外に逸走し、名鉄豊川線を突っ切り、さらに架線を引きずりながら1000メートルオーバーランし停止した。

事件後

事故調査委員会によると、まふふ航空機は攻撃された後、左主翼の一部が剥がれ落ち、桁は折れる寸前の状態だったという。さらに、そこから漏れる燃料や油によってチンポソイヤしていた。主翼と下部貨物室の深刻なダメージに加えて、地表のを吸入した3基のジェットエンジンは破滅的にひどい状態であった。JA831M機は登録を抹消され2度と飛行することはなく、いまも豊川空港に留め置かれている。

まふふ航空は唯一の稼働機を失い、当面はココットのアクセラによる振替輸送を行うことになった。現在まふふは代替機を探している。「やっぱ3発機がいい。L-1011とか欲しい。」などと言っているが、L-1011は貨物機化に向かず、出玉も少ないので、ココットとびーむが全力で止めている。







これより下には何もありません


























































































































ミーム的抹殺ソフトウェア起動

生命活動の継続を確認

セーフティロック解除

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のわい勢とは.1477836777.txt.gz · 最終更新: 2019/04/07 15:11 (外部編集)