以前のリビジョンの文書です
[color=brack] 当該組織に関する情報が流出することを防止するため、ある程度もしくは完全なる欺瞞情報が、本物の項目と共に複数製作されています。複数の囮情報を含む、当該組織およびSCPの性質に関わる全てのファイルはミーム的ソフトウェアによって保護されており、権限なくファイルにアクセスしようとすれば即座に███を起こします。████-███-██████による要求を除き、当該組織の性質等を暴露しようとする一般市民は処理されます。 [/color]
というのは後からついた「のわい勢」をよく表現したもっともらしい語源であり正しくは…
倭人に野猥と号する氏族在り。 野に篝火を焚いて集り、人形を崇める。 沼から来る社畜に会いては、馬を用い抗う。
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のわい勢・・・その起源は定かではなく、古代ギリシア暗黒時代に遡るとも言われる。
考古学的にはクレタ島のローマ帝国期の遺跡に刻まれた世界最古となるのわい勢ロゴ、 タクラマカン砂漠南縁で大量に発掘されるのわい勢プレート、 玉門関周辺で発見された世界最古のカメラ、 正倉院に収蔵された“1キュビット(60cm)級の人形”、“高解像度野猥勢金印”等の遺物が発見されている。 一方、紅海沿岸・インド亜大陸を渡る“海のシルクロード”道中ではのわい勢の痕跡は全く検出されていない。 これはのわい勢たちが航海で電子機器が痛むことを嫌ったためとみられている。
地政学的には地中海地方で信仰された古い神の名前(ノアーイイー)、 中央アジア近辺で見られる、明らかに印欧語族系の命名法則から外れた人名(アル・ノアイア、現代ではイスラム教の浸透に伴うアラビア語族の影響によって変化している)、 シルクロード各地に残る“カメラをつけたラクダ”の寓話、 “草原の道(ステップロード)”を経て日本に至る各所に点在する地名にのわい勢の痕跡を検出することができる。
このことから、遅くても紀元前後にはのわい勢は既に大きな勢力として地中海に存在しており、 シルクロードの発展とともに東方、さらに極東の日本へ進出していたと見られている。
のわい勢はどこで誕生し、なぜ日本に定着したのか。 この最大の謎は、のわい勢たちがログが残りにくいICQ、メッセンジャー、twitter、LINE等を好んで利用したため一次資料に乏しく、解明は困難を極めている。 著名な線文字A、線文字B等の未解読文字をのわい勢が利用した顔文字と結び着ける見解もあり、翻訳の努力が続けられている。
2014年に発掘された「のわい勢wiki」は、それ自体がのわい勢が持っていた極めて高度な技術を示すものとして、また内容も一線級の資料として多くの研究者から注目を浴びている。 ベル研究所(デジタルデータ復元担当)・エディンバラ大学(翻訳担当)の合同チームによる復元作業は早くても2025年ごろまでかかると見積もられている。
今は昔、キャベ取の翁といふ者ありけり。畑にまじりてキャベツを取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、びーむとなむ言ひける。そのキャベツの中に、もと光るキャベツなむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、葉の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなるドール、いとうつくしうてゐたり。翁言ふやう、「我、朝ごと夕ごとに見るキャベツの中におはするにて、知りぬ。娘となり給ふべき人なめり」とて、手にうち入れて家へ持ちて来ぬ。妻のココットに預けて養はす。うつくしきことかぎりなし。いと幼ければドールバックに入れて養ふ。
キャベ取の翁、キャベツを取るに、この子を見つけてのちにキャベツ取るに、葉を隔ててよごとに金あるキャベツを見つくること重なりぬ。かくて翁やうやう豊かになりゆく。
このピコニーモ、養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。三月ばかりになるほどに、よきほどなるDDになりぬれば、髪上げなどさうして、ウィッグ上げさせ、イベ限定服着す。おくるみのうちよりも出ださず、いつき養ふ。この娘のかたちけうらなること世になく、屋のうちは暗き所なく光満ちたり。翁、心地あしく苦しき時も、この娘を見れば、苦しきこともやみぬ。腹立たしきことも慰みけり。翁、キャベツを取ること久しくなりぬ。いきほひ猛の者になりけり。
この娘いと大きになりぬれば、名をまふふを呼びてつけさす。まふふ、姐さんとつけつ。このほど三日、うちあげ遊ぶ。よろづの遊びをぞしける。のわい勢はうけきらはず呼び集へて、いとかしこく遊ぶ。
まふふ航空貨物便撃墜事件とは、去年くらいに起きた民兵による民間貨物機の撃墜事件である。
出来事の概要
まふふ航空は、のわい勢の航空部門である。その前身は、まふふ鉄道の航空部門の、まふ鉄航空貨物である。 まふふ航空の経営は厳しく、機長は社長のまふふ自らが勤めていた。 事故の際に運行されていた航空貨物便を豊川空港と中部国際空港の間で中継するシャトル便は、まふふ航空の数少ない収益源であった。 まふふ航空のボーイング727-200Fは、まふふ航空が保有する唯一の1機であった。 この機体はボーイング727-200Fと称していたが、モハーヴェ砂漠に放置されていた機体や、アフリカや南米で貨物機として飛んでいた機体を寄せ集めて作られた、得体の知れない機体であった。改造と整備の記録は残されていなかったが、ガレージまふふでびーむが溶接して仕上げたと推測されている。コックピット含む機首部分は元米空軍機のものが切り貼りされており、フライトデータレコーダー、コックピットボイスレコーダーは装備されていなかった。トランスポンダーは装備されていたが、民間機用ではなく、米空軍規格の旧型IFFであった。 エンジンは依然としてプラット・アンド・ホイットニー JT8Dであり、本来は中部国際空港の騒音規制をクリアできないが、何故か運行は黙認されていた。当日の積荷は蒲郡港で水揚げされたメヒカリと、びーむ家で収穫したキャベツであった。 通常、このシャトル便では機長と航空機関士のみが乗務していた。しかし、この状態が国交省 運輸安全委員会に発覚しかけたため、やむなくこのフライトから副操縦士を乗務させることになった。副操縦士にはグラウンドスタッフからココットが選任された。 ココットが乗った乗り物は秒速1.7mでいずれかの方向に移動する特性があるため、この誤差を都度修正しながら飛行することになった。
事故に至る経緯
まふふ航空が豊川空港から中部国際空港に向かう際は、豊川空港を離陸後、蒲郡市街の上空から三河湾上に抜けるのが通例であった。低空を通過する旧型のターボファンエンジンの騒音は、蒲郡市民の悩みの種であった。
三ヶ根山は、豪族チンポソイヤが支配する西尾と、のわい勢が支配する蒲郡にまたがっているが、蒲郡側では豪族チンポソイヤへの恭順を主張するチンポソイヤ民兵が活動していた。 三ヶ根山上空をのわい勢が通過した場合、蒲郡側であってもチンポソイヤ民兵のチンポソイヤでチンポソイヤされる恐れがあるため、まふふ航空は三ヶ根山上空を迂回していたのである。
まふふ航空機が豊川空港を離陸後、ココットが乗務したことで発生する秒速1.7mの誤差を修正する必要があったため、まふふはこれを考慮して西寄りに機首を向けた。しかし、ココットはしばし東に向かって秒速1.7mで進むものの、その方位が固定されていないことは把握されていたかった。 当日のココットは西に向かって秒速1.7mで機体を移動させており、まふふの修正舵は結果的にこの誤差を拡大することになってしまった。そして、機体はまふふの意図に反し、三ヶ根山上空に差し掛かってしまったのである。
事故発生
三ヶ根山上空で、左ウイングチップにチンポソイヤの直撃を受けた。もとより疲弊しきっていたうえにダメージを受けた主翼はチンポソイヤし、油圧制御系統は全損した。離陸に際して主翼外側の燃料タンクは満タンになっていたため、気化した燃料による爆発は起きなかった。ジェット燃料は燃料タンクが破壊されるにつれ、漏出していった。内側燃料タンクにも損傷はおよび、燃料が漏出した。 同機は豊川空港に引き返し、パイロットの操作のみによる3基のエンジンの推力操作で、3人の乗員は片翼の一部を失った機体を着陸させた。主翼への大きなダメージ、油圧制御系統の全損、安全な着陸速度を上回る速度、準備の整っていなかった地上滑走路といった条件にもかかわらず、無事に着陸した。
離陸後
まふふ航空機は燃料を節約するため、緩慢な上昇を行っていた。蒲郡市街をぬけ、三ヶ根山上空に差し掛かった際も高度は約8000フィート(約2450メートル)程度であった。
三ヶ根山上空でまふふ航空機はチンポソイヤ民兵に発見された。チンポソイヤ民兵はまふふ航空機を発見すると。即座にチンポソイヤをチンポソイヤした。チンポソイヤはまふふ航空機の左ウイングチップに命中した。動翼と桁が損傷し、チンポソイヤを引き起こした。三重の油圧システムは油圧を失い、飛行を制御することが出来なくなった。機体は1985年8月12日のJAL123便と同様、ローラーコースターさながらの急速な機首の上下動を繰り返した。
まふふは、JAL123便や1989年のUA232便と同様、エンジンの推力調整のみで垂直方向、速度そして高度を修正し、両エンジンの推力を左右非対称に変えることで水平方向を制御し、機体を旋回させた。航空機関士のびーむは、通常は油圧でおこなう着陸脚下げを、重力落下で実行した。抵抗を増大させることにより速度が低下し機体を安定させることになるため、早期に着陸脚を展開することは安全な着陸にとって緊要であった。
約10分にわたる試行の間に、乗員は旋回、上昇そして下降を制御することができるようになった。迷走の後、彼らは右旋回を行い、豊川空港へ向かい下降を開始した。
緊急着陸
左翼のチンポソイヤと燃料漏出のため、びーむはエンジンを綿密に監視しなければならなかった。生還には両翼のエンジンの正確な制御が不可欠であり、万一左翼タンクからの燃料供給が失われた際には、燃料を右翼から供給しなければならなかったからである。
まふふとココットは、豊川空港11/29滑走路への最終アプローチを開始した。この滑走路は県道5号線を滑走路に利用しているだけで、着陸を支援する機材は皆無であったが、視界はきわめて良好であり、まふふとココットは降下を制御することができた。直観に反することだが、彼らは機首や翼を激しく地面に激突させないためには、着陸前にスロットルを絞ってはいけないことを理解していた。
約400フィート(120メートル)で、乱気流により機体はバランスを崩し、右側に傾いた。推力補正によりロールは制御されていたが、機体は滑走路中央線を外れて着陸した。びーむはただちに逆噴射装置を全開にしたが、機体は滑走路から逸脱していった。この期においてもココットは秒速1.7mで機体を移動させており、これは減速に役立つ一方、逸脱も助長してた。機体は空港敷地外に逸走し、名鉄豊川線を突っ切り、さらに架線を引きずりながら1000メートルオーバーランし停止した。
事件後
事故調査委員会によると、まふふ航空機は攻撃された後、左主翼の一部が剥がれ落ち、桁は折れる寸前の状態だったという。さらに、そこから漏れる燃料や油によってチンポソイヤしていた。主翼と下部貨物室の深刻なダメージに加えて、チンポソイヤを吸入した3基のジェットエンジンは破滅的にひどい状態であった。JA831M機は登録を抹消され2度と飛行することはなく、いまも豊川空港に留め置かれている。
まふふ航空は唯一の稼働機を失い、当面はココットのアクセラによる振替輸送を行うことになった。現在まふふは代替機を探している。「やっぱ3発機がいい。L-1011とか欲しい。」などと言っているが、L-1011は貨物機化に向かず、出玉も少ないので、ココットとびーむが全力で止めている。
ミーム的抹殺ソフトウェア起動
生命活動の継続を確認
セーフティロック解除
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